先日 茨城に行った帰り、日立鉱山に寄ってきた。
ここは、採鉱当初は、赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山であったが、久原房之助が経営に乗り出し、大規模な鉱脈を掘り当てた後、日立鉱山と改名され本格的な開発が開始された、現 日立製作所の前身会社である。
日立鉱山と言ったらやっぱこれ!大煙突。
銅の精錬時に発生する亜硫酸ガスの煙害を防ぐための対策として建設された当時の大煙突
(大正3年建設時には155.7メートルの高さがあったが平成5年強風と老朽により倒壊し、54メートルになってしまった)
『日立電鉄大雄院事務所前停留所』
現役当時はここに鉄道が敷かれ電気機関車が走っていた。現在はバス停になっている。
当時の大雄院停留所
事務所を過ぎて歩いていくと橋があった。
その奥に選鉱所の跡らしきホッパー。この下には線路があったんだろうな・・・。
また歩くと本山神社の鳥居。社まで行ってみたい気もしたけど一人ではこの季節はまだ怖い
とか
とか・・・
日鉱記念館に行くと坑口がお出迎えしてくれた。
『栄斜坑口』
柵の隙間から中を覗くと、線路にトロッコが置いてあった。
そして第一竪坑と、第十一竪坑
第一竪坑の根元には
日立駅まで走っていた電気機関車
徘徊しているとまた坑口発見
もう一個発見。これは通気口かな?多分。
さらに坑口
タマラン
この通せんぼになっているところを行くとなんやら色々な跡があるらしい。
久しぶりの鉱山プチ探索。
日立鉱山は、鉱山労働者とその家族を含め、最高で2万5千人もの人が生活をしていた。
少し山に入って歩くと、たくさんの社宅や学校、劇場、供給所(売店)花街など生活の跡があるようだ。
興味は尽きない。今回は時間の都合もあって日鉱記念館の中には入らなかったけど、きっと色々な資料があるんだろうな。
当時の様子とかを知っている人がいたらその方にも話を聞いてみたい。
白たい なぜかこういうとこに行っても、現場だけ見ると満足して帰ってきちゃうんだよな^^;
次回はもっと余裕をもって行って来よう!
ここは、採鉱当初は、赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山であったが、久原房之助が経営に乗り出し、大規模な鉱脈を掘り当てた後、日立鉱山と改名され本格的な開発が開始された、現 日立製作所の前身会社である。
日立鉱山と言ったらやっぱこれ!大煙突。
銅の精錬時に発生する亜硫酸ガスの煙害を防ぐための対策として建設された当時の大煙突
(大正3年建設時には155.7メートルの高さがあったが平成5年強風と老朽により倒壊し、54メートルになってしまった)
『日立電鉄大雄院事務所前停留所』
現役当時はここに鉄道が敷かれ電気機関車が走っていた。現在はバス停になっている。
当時の大雄院停留所
事務所を過ぎて歩いていくと橋があった。
その奥に選鉱所の跡らしきホッパー。この下には線路があったんだろうな・・・。
また歩くと本山神社の鳥居。社まで行ってみたい気もしたけど一人ではこの季節はまだ怖い


日鉱記念館に行くと坑口がお出迎えしてくれた。
『栄斜坑口』
柵の隙間から中を覗くと、線路にトロッコが置いてあった。
そして第一竪坑と、第十一竪坑
第一竪坑の根元には
日立駅まで走っていた電気機関車
徘徊しているとまた坑口発見
もう一個発見。これは通気口かな?多分。
さらに坑口
タマラン
この通せんぼになっているところを行くとなんやら色々な跡があるらしい。
久しぶりの鉱山プチ探索。
日立鉱山は、鉱山労働者とその家族を含め、最高で2万5千人もの人が生活をしていた。
少し山に入って歩くと、たくさんの社宅や学校、劇場、供給所(売店)花街など生活の跡があるようだ。
興味は尽きない。今回は時間の都合もあって日鉱記念館の中には入らなかったけど、きっと色々な資料があるんだろうな。
当時の様子とかを知っている人がいたらその方にも話を聞いてみたい。
白たい なぜかこういうとこに行っても、現場だけ見ると満足して帰ってきちゃうんだよな^^;
次回はもっと余裕をもって行って来よう!
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